無題
◆ いろんなものに依存している。そうしていないと毎日たのしくないような気がするからだ。普通の人間として形を保っていられないような気もする。そしてたのしくなくなるのが、とても怖い。
◆ 言葉に言葉を重ねて、以前吐いた言葉を薄めていく作業。自分を更新するだけの日々。そんな自分を一体誰が見ていてくれるのかもわからずに。ただただ退屈である。
◆ 形あるものに恐怖を覚えたとき、人は概念に逃げる。概念に心を蝕まれたとき、人は形を愛する。あっちへ行ったりこっちへ行ったりでよく疲れないな。否、わたしは疲れている。
ずっと考えてきたこと
あらゆる立場の弱さがあって、
そこに生まれるマイナスの気持ちはうそじゃなく生々しくほんとにあって、
そういう気持ちに立場を超えてどこまで寄り添えるかが試される(*)場面は何気無いけれどとても多い。
*試されてると感じるのはわたしの中の後ろめたさとかそういうものから来るものだと思う
うん
肯定 は否定しないという意味ではなく
黙って受け入れるという意味ではなく
流れる水を眺めるかのように「いいと思う」とか言うのではなく
もちろん無責任に褒め称えるのではなく
肯定 というひとつの意味を持っていてほしいと思う
そういう肯定がわたしはとても好き
最近のこと
誰も教えてくれないことが前提だったから、
急に「教えてあげよう」とか言われてもどんな顔して聞けばいいかわかんないよ。
逆にいえば、あなたはわたしがどんな顔して聞いていても、最後まで教えきってくれるのかな。
とかね。
無題
言葉というものに意味を乗せすぎて、
ありもしない力を求めすぎて、
やがて責任までをも言葉に乗せてしまう、そういうやり方は好きじゃない。
言葉が剣なら、それを振るうのは人間であって、剣そのものは決して人を傷つけないのに。
剣の奥にある人の顔を、心を、想像しないで闘えますか。
顔を見られているという自覚なしに相手の剣を防げますか。
けがれ
一日に何度も開け閉めして、生活の中で擦り切れつつあるものの中に少しずつ何かが蓄積され、
いつのまにかそれが腐臭を放つ。
何気なく開けた誰かのクローゼットから骸骨が転がり出てきても
なんにも言わずにそれを埋めに行ける人でありたい
何度でも思う
おいしいものとの出会いは恋愛。宇宙にあふれる引力。
人のこころは口の中にあるのではないかという、ぼんやりとした仮説