思い出すこと

経験者の助言はとても正しいことが多く
その助言の通りに行動してさえいればうまくいったと思われることも少なくはないけれど
どれだけ正しく説得力のある言葉でも、経験のない人間にはとんでもなく伝わりにくいものだっていうことが往々にして問題である

わかりやすい、無駄を省いた、大きな声で、
そういうことが、ある面ではひたすら無力であるということをわたしの教師は忘れていた、でもわたしとそれから生徒たちはおそらく皆が知っていた

知っていたという明らかな自覚は無かったとしても、かすかな違和感という形で影を落としていた

そこから

聖人のような人は、明日にでもぽっくり逝ってしまいそうな危うさを滲ませている。

わたしは聖人じゃないけれど、それは「そこ」から遠いか近いかの差でしかないのかも知れない。

何を追い求めていても、どこを目指していても、
泣いていても、笑っていても、笑い転げていても、いつでも死が先回りをしてわたしを待っている。

そんな気配がいつもする。

 

そんげんってなあに

 「人間が生きるのに最低限必要なものは何か」という問いがあったとして、全ての人に共通する答えは「水と食料」あたりだろう。
でも、ただ命をつなぐというだけじゃなくて、「その人なりの尊厳を保ちながら生きるのに最低限必要なものは」と問いを変えると、答えは人によって差が出ると思う。

 たとえばリュックひとつで外国を旅してるひげぼうぼうのカメラマンと、月に一度のエステは欠かさないというきれいなおねえさんとでは、
「必要なもの」の数や種類はぜんぜん違うんだろう。

 命にまさるものはないとは言うけれど、命があってはじめていろんなものが手に入るわけで、いろんなものを手に入れられるからこそ命が大事に思われるわけで、
その関係は常にくるくる回っているから、命だけさえあればいいというわけでは決してないのだ。

 そういうところ、見失いたくないなと思う。

くそったれな自意識

 わたしは身の回りに多くの不満を抱えている人並みの若者である。あらゆるものがくそったれである。

昨日と今日とで言ってることが矛盾したりもする。あらゆるものはくそったれだからである。

きれいな世界をテレビやインターネットで眺めては、ほんとうにくそったれじゃない世界は画面の中にしかないのだと、嘆息をつきたくもなる、ほんとうによくあるタイプの若者である。

 いま生きているこの世界を、きれいな部分だけ切り取って見られるならば。そういうふうに生きるのが理想なのだ。誰がくそったれなんかのためにわざわざ腹を立てたいと思うだろう。

 それでも、くそったれはくそったれで生きている。くそったれが消えてなくなったって知ったことじゃないが、くそったれを自分の手で傷つけたいとは決して思わない。

 自分自身も誰かにとってのくそったれだ。そんな考えから一生逃げられない気がして仕方がない、ひたすら青臭い若者である。

かるくてうすい

言葉はそれが本音であるほど人を傷つけやすいから、どうしてもなかなか本音を書けない。

赤裸々であるほどいいと思ってたこともあるけれど、それで誰かを傷つけるくらいなら何も言わないほうがいい。
だって自分の言葉がなにかの役に立つわけじゃない。なにかの役に立つために言葉を紡いでるわけじゃない。わたしはね。

だから何の役に立つかもわからない言葉を、本音に近い形で、それも攻撃的な形で、ためらいもなく吐き続ける人をわたしは「軽薄だ」と思う。

一方で「どこかうらやましい」という気持ちもある。

すこしだけオブラートに包んだわたしの本音。